Etude (12Etude,Op.25 CHOPIN) 1.エオリアン・ハープ 2.オリーブソープ 3.兄弟 4.東方の空 5.サボン・ド・マルセイユ 6.3度のかくれんぼ 7.筆跡 8.6度のおにごっこ 9.蝶々と子犬 10.オクターヴのすれ違い 11.Libera me 12.君に誓う★ 1.エオリアン・ハープ 東方司令部近くの少し丘になっているところに広がる草原を見渡すと、案の定、司令部を抜けだした上官が、読みかけの本を頭に載せて転寝していた。 私は彼の側にしずかに腰を下ろした。彼は動かない。私の気配などとっくにお見通しだろうというのに。 彼のエスケープ場所はいくつかあるが、ここに来るときは、彼が精神的に疲れているときやとてつもなく良い錬金術のアイディアを思いついたときか、あるいは私が自分で思っている以上に疲れているときだ。今日に関しては、おそらく後者だと思われる。確かにここのところ立て続けに事件が起きて事務的な後処理が続いており、司令部に篭りきってしばらく家に帰っていなかった。仮眠こそとっているものの、精神的にあまり良いとはいえない状況だった。 彼は仕事がそれなりに落ち着いてきたことを見計らって逃げ出した。誰もが「さすがの大佐も、逃げ出したくなるよな」と納得しつつ、それを探さなければならない私に同情の念を寄せた。だが、実際には彼は司令部に篭りきりの私をどうにか外に連れ出す理由として、自分が逃げ出すということを選んだのだろう。 敬愛するこの上官が仕事から逃げ出すようになったのがいつごろのからかなどもう覚えてはいないが、気が付いたときには周りに「デスクワークが苦手で、現場に出ると活き活きする」などと言われるようになった。確かに現場が好きだというのは本当だけれど、彼がれっきとした研究熱心な錬金術師で、実は字に囲まれ机に張り付いて生活するのがまったく苦ではないという事実は、あまり認知されていない。もちろん意味があるんだかないんだかわからないような、形式ばかりが繰り返される文書に辟易していることも間違いではないかもしれないけれど。 だからこうやって逃げ出したところで、「いつものこと」として片付けられる。そうやって彼は自分一人で悪者になりながら、私を気遣ってくれるのだ。 頭上には青く広い空が広がり、心地よい風が吹く。目を閉じれば風にそよぐ草花たちが、さわさわさわと鳴るのが耳をくすぐる。まるで風になびいて音を奏でるエオリアン・ハープのように、疲弊した私の精神を癒していく。 隣で眠った振りを続ける彼が愛しい。こんな想いを抱いていては、この先続いていくであろう棘の道は決して乗り越えていくことはできない、そうわかっていても彼に対する想いは簡単に消えるものではなかった。覚悟はできている、決してこの想いが実らないということは。いつか彼が大総統になってこの社会を幸せに導くという偉業を成し遂げることができたとき、もしまだ私の入る余地があるならば。そんな余地はきっとないだろうけれど。 彼の夢は、私の夢。彼がその夢を、未来を叶えるために、私は部下として彼を支えていく。それがたとえ人を撃つことになったとしても。 風にのって草花のエオリアン・ハープが響く。私は彼の頭上の本にキスをした。 2.オリーブソープ 職場からの帰宅途中の大通りで、石鹸を売る露店を見かけた。色とりどりに包装された商品はさまざまな香料が入った石鹸で、その店の中心に置かれていた。私は露店に近寄るとしばらくその店を眺めていたが、隅のほうにこっそりと置かれた木箱入りの大きなオリーブ油の石鹸を見つけると、それを手にとった。 いつのことだったか、父のもとに泊り込みで錬金術の修行にきていたお弟子さんに、湯浴み最中の風呂場から「石鹸がなくなってきているので、新しいものが欲しい」と呼びかけられたことがある。当時風呂場から父以外の異性に声をかけられたことに慌てた私は、おどおどしながらそれでも咄嗟に「すみません、今切らしているんです」と答えた。だが、当時きちんと成形された石鹸など大変高価なもので、日々の生活ですら切り詰めていた我が家では石鹸は日常的に使うものではなく、新しい石鹸を用意しておく余裕などないのが現状だった。 彼は次に我が家を訪れたとき、自宅にあったという石鹸を持ってきた。白地にピンクのきれいな文字と鮮やかなイラストが描かれたパッケージで、包装の上からでも甘いフルーツの香料の甘い香りが広がる、いかにも高そうな石鹸だった。成り行きで受け取ってしまったがとても自分で使うことなどできず、彼が来たときにだけこっそりと風呂場に出していた。だが香りの強い石鹸だっただけに、それが彼にもすぐにわかってしまったのだろう、彼は残念そうな顔をしながら、しばらくしてまた別の石鹸を持ってきた。それは木箱に入った泥のような香りのする緑の石鹸だった。オリーブ油でできているというその石鹸は尋常ではない大きさで、一家族が使っても一、二年使えるとのことだった。この石鹸なら私が躊躇することなく使えるだろうという、彼の気遣いだったのだろう。それから私はその石鹸を使うようになった。大切に大切に、無くならないように。泥のような匂いは最初こそ鼻についたものの、いつのまにかその香りがなければ石鹸でないように思うほど、オリーブ石鹸は我が家に馴染んだ。 士官学校に入ってからはそんな贅沢とは程遠く、久々の再会だった。木箱入りの大きな石鹸はそれなりに値が張ったが、当時の我が家で軽く三年は使えたことを考えると高くはないかもしれない。 私は懐かしい香りのする香料入りの石鹸とその木箱入り大きなオリーブ石鹸をその店で一つずつ購入した。一人暮らしではいったいどのくらい持つのだろうと考えながら。 3.兄弟 「まってよ、兄さん!」 「早く来いよ、アル!置いてくぞ!」 司令部内を駆けていく兄弟を見送りながら、うらやましいと思った。ごつい男達ばかりでむさくるしい雰囲気の司令部を一切に気にすることなくぴょんぴょん跳びはねるように進む少年達には、想像を絶するような辛く重い過去があっただろうに、そんなことを一切感じさせない。彼らがそういられるのは、互いに頼ることのできる兄弟がいるからだろうか。 兄弟とはどこもきっとそういうものなのだろうが、残念ながら私は一人っ子で親戚との付き合いもなかったから、よくわからない。しいて言うならば幼い頃に一緒だった頼れる兄のような存在はいたけれど、彼に対してはどこか淡い憧れも常にあったから、本当の兄弟のように笑いはしゃぎあうことはほとんどなかった。けれども、幼い頃の自分にとってその”兄”のような人が、日々の苦しい生活の中で荒んだ自分の気持ちを安らかにしてくれる存在であったことは間違いなかった。果たして彼にとっては私がどんな存在だったかは定かではないが。 一五〇〇までもう少し。給湯室に、彼らが来ると知って用意しておくように指示されたケーキがある。早くお茶を入れて、持っていってやらなくては。今ごろ少年達におやつを急かされて焦っているであろう頼れる”兄”を思い、自然と笑みがこぼれた。 4.東方の空 女性とのデートは、半分は情報を集めるため、半分は世間に私の女好きのイメージを植え付けるため。養母の職業柄、私も年頃になってからはずいぶん女性に関しては鍛えられた。どうすれば彼女達が喜ぶのか、どうすれば彼女達からスムーズに話を聞き出せるのか。もちろん養母の店の女の子達は皆情報のやり取りに長けたもの達ばかりだから、こちらが特別気を遣わなくてもきちんと仕事をこなしてくれるのだが。 女性の扱いにはずいぶんと慣れた。情報を得ることはもちろんのこと、デート自体もそれなりに楽しい。欲求もある程度満たしてくれる。多少のお金はかかるが、それなりに収入がありながら誰を養うわけでもなく、一人気ままに暮らしている自分には別段負担にもならない。 情報屋ではない女の子達とのデートは、本来恋人や思いを寄せる相手と普通に行われるそれと大差ない。基本的には「遊び人のマスタング大佐」を証明してくれれば良いわけで、情報に関しては得られたら儲けものという程度だ。しかしこれらはあくまで『恋愛ごっこ』である。向こうが私にどんなに気があろうとも、私には彼女達に恋愛感情が芽生えることはない。もちろん私も男だから、連れて歩くのに見目は良い方がいいと思うし、スタイルにも好みがある。性格だって得手不得手があるのは仕方あるまい。しかしこれらのデートはただの「遊び」ではないから、そんな贅沢は言っていられない。私がとっかえひっかえ女の子を連れ歩いているように世間に認識してもらえれば、それでいいのだ。 ときどきこの不毛なデートをやめたくなるときがある。本音をいえば、ちょっといいなと思う程度の子達と楽しいだけの遊びなんてあまり興味がない。複数のかわいい女の子達よりも、本当に想いを寄せる一人の女性とよりよい関係を築くことのほうが、よっぽどいいと思っている。実は、私はそんなに女好きの部類ではないのかもしれない。だが、その想いを寄せる女性とは残念ながら男女の関係になることはできそうもない。自分が蒔いた種とはいえ、一番恋愛とは遠い関係になってしまった。弱く力がないと思っていた彼女は、自力でここまで追いついてきた。ひとりぼっちの姫を迎えに行く強く格好の良い王子のおとぎ話に夢見ていたのが男の自分だけだったなんて、馬鹿みたいな話だ。女々しくて涙が出てくる。 いつの間にかデートの目的が「遊び人のマスタング大佐」を装うためではなく、報われない想いの憂さ晴らしになっているような気がして、イーストシティの曇り空を見上げながら振られてばかりの部下を笑えないと思った。 5.サボン・ド・マルセイユ 師匠であるホークアイのもとに通っていたとき、週末になるとホークアイ家に泊り込みで師匠の講義を受けていた。宿泊するにあたって、ホークアイ家は広いのに2人しか住んでいないお陰でとくに困ることはなかったのだが、風呂場にはいつもちびた石鹸しかなかったのだけがいつも気になっていた。最初の幾度かは我慢してその石鹸を使っていたが、いつになっても変わらぬそれに耐え切れず、リザに新しい石鹸を要求したことがある。そのときリザは新しいのを切らしていると言っていたが、あとで生活費も切り詰めているホークアイ家に買い置きの石鹸など置く余裕もないのだと気づいた。普段当たり前に使っている石鹸が、この家では切り詰められる対象になっていると知って、少なからずショックを受けたのを覚えている。 そこで、次にホークアイ家を訪ねたときに手土産としてピーチの香りのする石鹸を持参した。これは私の養母の店に訪れる客が店の女の子にと持ってきた土産物で、少々強めの香料と素材の良さ、そして使った後の肌状態が良いのが評判の、マルセイユ石鹸だった。特に上流家庭や水商売の女性に人気で様々な種類の香りがあったが、その中で一番リザに似合いそうなかわいらしいものを選び、こんな高価なものは受け取れないと渋るリザに家にあったものだからと半ば無理やり受け取らせた。実際、自宅にはそういった貢物のような石鹸が山のようにあったから、欲しいと言われればいくらでも持ってくることはできた。自分で買った贈り物でないことは少し残念だったが、リザにもそういった女の子の楽しみをさせてやりたかった。 それからすぐその石鹸は風呂場に登場したが、しばらく経っても一向に減る気配がなかった。高価な石鹸はお客様のためのものと、リザは使うのを渋っているようだった。せっかくリザのために選んで持ってきた石鹸を使ってもらえないのでは意味がない。だが香料入りの石鹸は見るからに高価で、彼女に使ってもらうことは難しいのだろう。 そこで今度は家にあった別の石鹸を持っていった。それはオリーブ油で作られた大きな石鹸だった。匂いは泥のようで少々きつく、値段も香料入りよりは落ちるが、質の良さは香料入りのものより上だった。案の定、香料が入っていないことや大きさが良かったのか、多少渋ったもののその石鹸はホークアイ家の風呂場にすぐに採用された。師匠も、そしてリザ自身も使っているようだった。ホークアイ家にオリーブ石鹸の匂いはすっかり馴染んだ。 しかし、ある日それとは違う香りがリザからした。いつぞやのピーチの香りだった。風呂場でも台所で使っている彼女が気配はないのに不思議だったが、すぐにそれは解決した。リザ自身ではなく、服から立ち上っていたのである。リザはあのマルセイユ石鹸の屑を大切に包み、自身の洋服と共にチェストにしまっておいたのだった。リザのそんな女の子らしい様子に、初めて私は彼女にどきりとした。 あれから、どのくらい経っただろうか。私と彼女を取り巻く環境もずいぶん変わり、あの頃のように石鹸も高価なものではなくなった。年を重ねれば香りも石鹸から香水へと移り、より様々な香りを楽しめる身分になったが、彼女はあまり香水を好まなかった。だが、先ほど司令室に入ってきた「懐かしい石鹸を見つけたんです」と少し機嫌の良い彼女が髪に纏っていたのは、あのときのピーチの香りだった。忘れもしない、初めて私が女性に贈り物をした、あの石鹸の香りだった。私は思わず目を細めた。あのときの香りは、私だけの思い出ではなかったのだと。 6.3度のかくれんぼ 「マスタング中佐見なかった?」 階段を下りてところで我が副官の下士官に尋ねる声が壁を通して伝わってきた。廊下の角の向こう側だ。廊下に出ようとしていた私は踵を返して手前の階段に戻ると、さらにもう一階分階段を下りた。 エスケープも楽ではない。もちろん仕事中にエスケープするということ自体間違っていることは承知の上だ。だが、こんな嫌がらせのような書類ばかり相手にしていたら、精神的に持たない。それにもうすぐ査定の時期、自分の時間をどうにかして見つけないと、とてもじゃないが自分が国家錬金術師の資格を剥奪されてしまう。 彼の副官は、悲しいかな優秀だ。私の逃げる先などお見通し、どこに逃げても見かってしまう。そりゃあそうだろう、子供の頃から私のことを見ているのだから。たとえ途中にブランクがあったとしても、私の本質などそうは変わりはしない。ひょっとしたら彼女に見つけて欲しくて逃げているのかもしれない、そんなことを思いついて私はにやりとした。 見つけてもらうためには、隠れなくては。 研究のための時間を取るなどという当初目的はすっかり忘れて、私は行きつけの資料室にこっそり忍び込むと、息を殺して部屋の扉を閉めた。あとどのくらいで見つかるだろうかと、ワクワクしながら。 7.筆跡 大総統直下の配属となってから覚えることが多く忙しい毎日だったが、逆に自分の時間も取れるようになった。大総統という名のホムンクルスの監視下に入ることには緊張の連続かと覚悟していたが、意外にも慣れない仕事に対する緊張はあってもそういう意味での緊張感はまったくなかった。洗練された中央らしい雰囲気に圧倒されつつも、かっちりとした環境はむしろ働きやすくも感じられる。そのため帰宅時の疲労は、思っていたよりもひどくはなかった。家に帰るとブラックハヤテ号の相手をする程度で時間を持て余した。そこで、セントラルに異動が決まってからほとんどといっていいほど手をつけられなかった荷物を解き、ようやく整理を始めた。 小さな頃からそんなにたくさんの物を持つほうではなかったし、士官学校の宿舎に入るためにただでさえ少ない私物の中からかなり厳選して家から持ち出した。軍人として大佐の下で働くようになってからは毎日忙しくて物を買う時間もそれを使う時間もあまりなく、結局物はそんなに増えることがなかった。生活必需品はすでに紐解いているので、残っているダンボール箱はいくつもない。 残り少ないダンボール箱を開けていると、古い紙箱が出てきた。今までに貰った手紙や写真などを入れている箱だった。生活には必要ないと思っても、これだけはずっと処分できずに持ち歩いていた。久々の再会に開けてみると古い友人や士官学校の同期、祖父、実家の近隣の人などから貰った手紙や写真が出てくる。中でも群を抜いて多いのは、やはり父の弟子としてずっと我が家に通っていた大佐からの手紙だった。 入門した頃から東方司令部に所属するまでの長い間に渡って届いた手紙の数々は、彼の通ってきた道と共に私の歩んだ道の記録でもある。弟子の頃は我が家に世話になることへの挨拶から始まり、私事で父の下に通えないことへの詫び、私へのバースディカードなんかもあった。そして、我が家を出て士官学校へ入ることへの詫び、士官学校からの近況連絡、軍人として進路を決めたという報告。父が他界する前後の連絡のあといったん手紙は途切れ、しばらく間が空いてイシュバールから帰還し士官学校へ戻った私を気遣うの便りがいくつかあった。士官学校を卒業して東方司令部に配属になったところで、手紙は再び途切れる。改めて読み返すと、彼はいつも私に対して非常に細かな心配りをしてくれていたことが伺える。そんな彼に私は淡い恋心を抱き、そして彼の夢を力及ばずながらも支えになればと彼の行く道を追いかけた。まさかこんなにも彼の傍で彼を支えつづけることになるとは思わなかったけれど。 長い年月の間に、これだけ大きな環境の変化があった。それは彼自身の、そして私自身の人生の中で大きく変化したときでもあった。手紙はその変化を如実に表していた。だが、Roy Mustangという署名だけは唯一変わらなかった。見慣れた筆跡は、最初の頃からほとんど形を変えてはいない。手紙が届く度にこの名を見つけて喜んでいた幼い頃、会う機会がなくなってこの名をなぞりながら彼のことを想っていた少女時代、仕事で嫌というほど目にしていたごく最近までの日々。その意味合いは変わっても、私にとって彼のこの署名は心の支えだったのだ。 毎日のように見ていた彼の名前は、今となってはこうやって意識しないと目にすることもなくなってしまった。久々に対面したRoy Mustangの文字を指でなぞってみる。急になんともいえない心許なさが襲ってきて、私は彼を想いながら手紙を抱きしめた。 8.6度のおにごっこ 逃げる、逃げる、逃げる。この古く家は二人(と居候一人)が住むにはかなり広い、だから隠れる場所にも逃げる場所にも困らない。彼女が自分を探しているのを知っていて、なお見つからないようにこっそりと逃げる。 彼女はいつも努めて冷静な顔をしようとしているが、実は結構表情が豊富だ。最初に来たときはどんなに貧相な子だろうと思ったけれど、思いのほかくるくると表情が変わるのを発見して驚いた。焦った顔、嬉しそうな顔、怒った顔、そしてそれらが私に見つかったときの照れくさい顔。どれも彼女がどこにでもいる普通の女の子と変わらない、いやむしろそれ以上のかわいらしさを表わす。 大きな声で名前を呼んでくれさえすればすぐにでも顔を出すのに、研究に勤しむ彼女の父に遠慮して彼女はそれをしない。必ず傍までやってきて言伝る。たとえそれが夕食の支度ができた、などという些細なことでも。まるで興味のある物を見つけた子犬のようにどこまでも探しに来るので、自分を探していると知るとついつい逃げたくなってしまうのだ。そしてこっそり探している姿をのぞいて、程よいところで何事もなかったかのように顔を出す。 「マスタングさん!」 「やあリザ、そんなに慌ててどうしたんだい?」 悪趣味だなと思いながら、これだけはどうしてもやめられない。自分を見つけて明らかにホッとしたようなかわいらしい彼女の顔を見たいから。 9.蝶々と子犬 子犬というものは、動くものには本当によく興味を示すものだ。司令部の中庭の木陰で黄色い蝶を見つけた愛犬・ブラックハヤテ号は、いつまでも飽きずにそれを追いかけていた。少し高く飛んでいってしまえば、羽を持たぬ犬には決して届かないのに。それでも彼は全力で追いかける。 そんなハヤテ号を、私も飽きずに眺めている。はたから見ればさぞ滑稽なことだろう、かれこれ10分以上何もせず見つづけているのだから。けれども愛犬から与えられる時間は私にとっては癒しだ。子犬は嘘をつかない、ただ自分の欲求を前進でぶつけてくる。これだけ欲求に忠実にいられる愛犬に、羨望すら覚える。私もこうやって欲求に忠実に行動したら、どんなに楽なことだろう。周りを気にすることなく、ただ守るべき人だけをまっすぐ見つめて、彼のためだけに全力を尽くすことができたらいいのに。 本音と建前を巧みに使い分けるどろどろとした人間社会の中で、愛犬と接する時間は唯一無垢になれる時間だった。自由な時間に限りはある、だが、できる限りぎりぎりまでこの癒しの時間を楽しんでいたい。私は上方の司令室の窓から同じように愛犬を見つめる視線をなんとなく感じながら、愛犬をいつまでも眺め続けるのだ。 10.オクターヴのすれ違い 彼女との再会は、自分の考え得る中で最悪のパターンだった。というより、想像すら出来なかった展開だった。まさか彼女が自分を追ってこんなところまで来るとは! 彼女だって、こんな戦争の最前線で再会するなどとは思ってもみなかっただろう。 彼女は純粋な女の子だった。多少人見知りで負けず嫌いなところがあってどうにも誤解されやすいが、彼女の本質は非常にまっすぐでけなげだと思う。私が士官学校に入ることになったときも、反対した師匠に隠れて彼女はこっそり応援の声を掛けてくれたし、師匠の死の際にその背の秘伝を見せることになったときも、非常に難解な暗号を私なら読み解けると信じて疑わなかった。彼女は純粋に父親の言を信じ、そして私を信じた。 だから、師匠が亡くなったとき、本当は彼女を一人にしておきたくなかった。こんな彼女が一人ぼっちで暮らしていて誰かに傷つけられでもしたら、そう思うと何度彼女を連れて帰ろうと思ったか知れない。いや、本当は彼女を残して軍に籍を置いてからも、何度彼女を迎えにいこうと思ったことか。けれども、いつ命を落とすかもしれない軍にいて彼女を生涯幸せにするとは約束できないということが、いつも引っかかった。いくら士官学校を出ていたとしても新人尉官では前線に借り出されるのが関の山だ。もし私が彼女と一緒になって、それで若くして先に逝くことになったとしたら? 彼女をまた一人残して、それで彼女を幸せにしたといえるのか? そう考えると、とても勇気を出すことなど出来なかった。 彼女はまだ若い。たとえその背を人に見せることができなくても、きっといつかその背ごと彼女を愛し幸せにしてくれる男が彼女の前に現れるに違いない。考えるだけで悔しいが、それが彼女のためだと思った。もし私がそれ相応の身分になっても彼女がまだ一人だったら、そのときは改めて迎えにいけばいい。そうやって先延ばしにしているうちに、いつのまにか彼女との連絡は途絶えてしまった。連絡が取れないのを不思議に思って家を訪ねたこともあったが、すでに彼女はいなかった。 だから、彼女が今、目の前にいるという事実に愕然とした。いくら私を追ってくるとはいえ、まさか軍人になるという選択をするとは! 純粋な彼女は、こういう形で私を追ってきたのだった。 彼女の幸せを願うあまり連絡をとらず、その結果彼女に幸せとは一番程遠い道を選択させてしまった自身に、私は絶望した。 11.Libera me 偶然なのか必然なのか、父の死に際に傍にいたのは父のお弟子さんだった。ずっと会っていなかったというのにその時に限って居合わせたのだから、必然だったのかもしれない。もしくは、父が彼に会えるまで待っていたのか。どちらにせよ、父は口では文句を言いながら彼を相当買っていたことは事実だ。他人にあまり良い評価を下さない父が、珍しいことだった。実力の程は錬金術の素人の私にはわからないが、人柄は確かに信頼できると私も思っていた。 だから私は疑うことを知らず、ただ父を信じた。私の背に刻まれた秘伝を託すのは、どう考えても彼しかいない。けれども、彼をこれ以上私たち親子の元に引き止めておくわけにはいかなかった。彼には青年将校としての未来がある。「死なないで」なんてつい心配になって口から出てしまったが、士官学校を出た人の未来がどれだけ明るいかなど、世間知らずの私だって知っている。私のような誰からも気味悪がられるような背を持つ小娘など、甘えて傍にいてはならないのだ。 父の葬儀のあと、その意味も知らず彼が快く承諾してくれたのをいいことに、私はさっそく背中の秘伝を託す用意をした。服を脱がなければならないのだから、あまり変な場所でないほうがいい。ベッドの近くなら毛布で前を隠すこともできるだろう。他に誰もいない広い屋敷に男女が二人、もしかすると、いやこんな気味の悪い背中を見てそんなことはまずないと思うが、もしかしたら何か間違いが起こるかもしれない。たとえそんな間違いがおこらなくても、男性に肌を晒すのだ、緊張しないわけがない。それなら安心できる場所のほうがいい、そう考えて彼を自室に呼んだ。 一つしかない椅子をベッドの前に引っ張ってきて、「どうぞ」と差し出す。恐怖に声が震えたのは彼にはわかってしまっただろうか。彼が不可解な顔をしつつも腰かけたのを見届けると、私は靴を脱いでベッドに上がり、喪服のボレロを脱いでワンピースのファスナーに手をかけた。何を勘違いしたか彼は慌てた様子で私の手をつかんで止めたが、「秘伝はここにあるんです」と告げると黙り込んでしまった。私は恐怖を押し切ってファスナーを降ろし、私はワンピースを脱いだ。 背が露になる。彼が息を呑むのが聞こえる。先ほど着用していたボレロを胸の前に持つと、じっと瞼を閉じた。とても目を開けてはいられなかった。彼の視線を感じる。きっと秘伝に見入っているのだろう。 静まり返った薄暗い部屋の中でお互い口を開くこともなく、ただただ時間が過ぎていった。どのくらい経ったのか、カタンと音がして、彼が立ったのがわかった。彼がどういう行動に出るかわからなかったが、恐くて振り返ることはできなかった。やがて背に彼の手が触れて、びくりと体が反応する。恐怖で瞑った目にさらに力をこめると、何か暖かいものに覆われた。彼が私を背中から抱きしめたのだった。 「・・・・・・すまない」 彼は言葉を探しているようだった。私は動けず、ただじっと次の言葉を待つことしか出来なかった。 「君に恐い思いをさせてしまった。でも、師匠の秘伝は確かに受け取った」 彼の言葉に私は救われた思いがした。私が背中に負っていたものは、決して無駄ではなかったのだ。 安心からか、突然涙が溢れた。葬儀の際にも一度も流れなかった涙だった。私はボレロを持つ手に力をこめると、それからしばらく溢れ出す涙をしばらく止めることができなかった。 12.君に誓う 焔の錬金術師は、名目上は視力を失っても軍人として錬金術師として活躍していることになっているが、事実上は盲目であるが故に行き場を失った。たとえ兵法に長けていても見えぬ隊に指図することはできず、錬金術師として精進しようとも、本も読めぬ者に学問を追究することはできない。 彼女はそんな私の目になるべく、常に私の側に添った。これまではその背を守るべくいつも後ろについていたが、今度は目となるために常に前についた。彼女に引かれて歩む道は、不思議な感覚だった。 そして今日、初めて彼女を隣に立たせる。背を守るわけでもなく、目になるわけでもなく、私の連れ合いとなるために。お互いの手を取り歩むバージンロード、一人の紳士としてエスコートもできないのは非常に情けないが、そんな私の意を汲んでか、彼女の気配は決して前に出ることなく常に隣にあった。彼女の気配が、私の進む道の唯一の頼りだった。 改めて考えてみれば、彼女が私の頼りでなかったことなど一度もない。出会ってからというもの、たとえ側になくとも私の念頭には常に彼女がおり、彼女の存在が私を前に導いてきた。彼女なくして今の私は有り得ない。 叶うことなら、その晴れ姿を見たかった。視力を失ってからある程度の覚悟は受け入れてきたが、これだけは非常に悔いが残った。初めて出会ったときの短い髪にひどく痩せて目ばかりぎょろぎょろと目立ったあの頃から、一緒に過ごし始めてだんだんと少女らしくなっていく彼女に、目を奪われた。師匠が亡くなった日、秘伝を受け継ぐために見た彼女の背は、目を背けたくなるくらい白かった。そして別れ、最悪の環境での再会。しばらく会わないうちに、彼女は身も心も大人なり、自分の意志で私と共に棘の道を歩むことを決意した。どんどん綺麗になっていく彼女に想いを募らせながら、それでも彼女を一人の女性として受け入れることのできない自分の立場に何度恨めしく思ったことか。早く秘伝の呪縛から開放してやりたい気持ちと、そうすることで彼女が自分の下を離れていってしまう恐怖との戦いだった。エゴだとわかっていても、自分を正当化して彼女を手放すことはできなかった。 自ら傷つき、彼女も傷つけ、大総統になって民の幸せを導くという未来は見失った。だが、代わりに見出した『彼女と共に歩く未来』は、滑稽なことに結局私が最初に夢見た『彼女を幸せにする』という目的を達したのだった。 信じてもいない神の前で彼女を幸せにするなどと誓うのは狂言にも近い。だが彼女の目を見ることのできない今、どこにいるとも知れない神に誓うしか私にはできない。せめて彼女の姿を一目でも見ることができるのならば、彼女自身に誓えるのに。 牧師が聖書を読みあげる。少しの動きにもかさりと鳴る衣擦れの音が、彼女が普段は好まないふわりとしたドレスを着ていることを私に知らせる。 そして、牧師に指示され彼女と向かい合ったとき、異変が起きた。真っ黒な世界にぼんやりと白い陰影が浮かび上がったのだ。ぼんやりと、だが、確実にそれは人の形をしていた。私は動くことも出来ずに前を凝視した。最初は自分の幻想かと思ったが、それは紛れもなく今の彼女の姿だった。 ざわめく人の声がする。当然だろう、誓いのキスを前に新郎が微動だにしないのだから。だが、そんなことは関係ない。 「准将?」 「見える」 彼女の気遣う声につられて、私は言葉を発する。グレーがかった白がぼんやりと動く。白いベールに、白いボリュームのあるドレス。たとえ彼女の顔が見えなくても、私が肩をつかめば、白はそれに応える。間違いなく彼女だ。 「え?」 「見える、君が」 神など信じない。私は錬金術師、科学者なのだから。けれども、今日ばかりは神に感謝したい。一瞬でも、ぼんやりとでも彼女の姿を見せてくれた神に。 「リザ」 そのまま彼女を引き寄せ、抱きしめた。目の前に白が広がる。忘れないように、失わないように、目を閉じた。 「君に誓う。君を必ず幸せにする、と」 |