1.エオリアン・ハープ

 東方司令部近くの少し丘になっているところに広がる草原を見渡すと、案の定、司令部を抜けだした上官が、読みかけの本を頭に載せて転寝していた。
 私は彼の側にしずかに腰を下ろした。彼は動かない。私の気配などとっくにお見通しだろうというのに。
 彼のエスケープ場所はいくつかあるが、ここに来るときは、彼が精神的に疲れているときやとてつもなく良い錬金術のアイディアを思いついたときか、あるいは私が自分で思っている以上に疲れているときだ。今日に関しては、おそらく後者だと思われる。確かにここのところ立て続けに事件が起きて事務的な後処理が続いており、司令部に篭りきってしばらく家に帰っていなかった。仮眠こそとっているものの、精神的にあまり良いとはいえない状況だった。
 彼は仕事がそれなりに落ち着いてきたことを見計らって逃げ出した。誰もが「さすがの大佐も、逃げ出したくなるよな」と納得しつつ、それを探さなければならない私に同情の念を寄せた。だが、実際には彼は司令部に篭りきりの私をどうにかして外に連れ出す理由として、自分が逃げ出すということを選んだのだろう。
 敬愛するこの上官が仕事から逃げ出すようになったのがいつごろのからかなどもう覚えてはいないが、気が付いたときには周りに「デスクワークが苦手で、現場に出ると活き活きする」などと言われるようになった。確かに現場が好だというのは本当だけれど、彼がれっきとした研究熱心な錬金術師で、実は字に囲まれ机に張り付いて生活するのがまったく苦ではないという事実は、あまり認知されていない。もちろん意味があるんだかないんだかわからないような、形式ばかりが繰り返される文書に辟易していることも間違いではないかもしれないけれど。
 だからこうやって逃げ出したところで、「いつものこと」として片付けられる。そうやって彼は自分一人で悪者になりながら、私を気遣ってくれるのだ。
 頭上には青く広い空が広がり、心地よい風が吹く。目を閉じれば風にそよぐ草花たちが、さわさわさわと鳴るのが耳をくすぐる。まるで風になびいて音を奏でるエオリアン・ハープのように、疲弊した私の精神を癒していく。
 隣で眠った振りを続ける彼が愛しい。こんな想いを抱いていては、この先続いていくであろう棘の道は決して乗り越えていくことはできない、そうわかっていても彼に対する想いは簡単に消えるものではなかった。覚悟は出来ている、決してこの想いが実らないということは。いつか彼が大総統になってこの社会を幸せに導くという偉業を成し遂げることができたとき、もしまだ私の入る余地があるならば。そんなことはないだろうけれど。
 彼の夢は、私の夢。彼がその夢を、未来を叶えるために、私は部下として彼を支えていく。それがたとえ人を幸せから遠ざけることになったとしても。
 風にのって草花のエオリアン・ハープが響く。私は彼の頭の上の本にキスをした。
Etude Op.25-1 As-Dur
(2010.06.01)
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2.オリーブソープ

 職場からの帰宅途中の大通りで、石鹸を売る露天を見かけた。色とりどりに包装された商品はさまざまな香料が入った石鹸で、その店の中心に置かれていた。私は露天に近寄るとしばらくその店を眺めていたが、隅のほうにこっそり置かれた木箱入りの大きなオリーブ油の石鹸を見つけると、それを手にとった。
 いつのことだったか、父のもとに泊り込みで錬金術の修行にきていたお弟子さんに、湯浴み最中の風呂場から「石鹸がなくなってきているので、新しいものが欲しい」と呼びかけられたことがある。当時風呂場から父以外の異性に声をかけられたことに慌てた私は、おどおどしながらそれでも咄嗟に「すみません、今切らしているんです」と答えた。だが、当時きちんと成形された石鹸など大変高価なもので、日々の生活ですら切り詰めていた我が家では石鹸は日常的に使うものではなく、新しい石鹸を用意しておく余裕などないのが現状だった。
 彼は次に我が家を訪れたとき、自宅にあったという石鹸を持ってきた。白地にピンクのきれいな文字と鮮やかなイラストが描かれたパッケージで、包装の上からでも甘いフルーツの香料の甘い香りが広がる、いかにも高そうな石鹸だった。成り行きで受け取ってしまったがとても自分で使うことなどできず、彼が来たときにだけこっそりと風呂場に出していた。だが香りの強い石鹸だっただけに、それが彼にもすぐにわかってしまったのだろう、彼は残念そうな顔をしながら、しばらくしてまた別の石鹸を持ってきた。それは木箱に入った泥のような香りのする緑の石鹸だった。オリーブ油でできているというその石鹸は尋常ではない大きさで、一家族が使っても1,2年持つとのことだった。この石鹸なら私が躊躇することなく使えるだろうという、彼の気遣いだったのだと思う。それから私はその石鹸を使うようになった。大切に大切に、無くならないように。泥のような匂いは最初こそ鼻についたものの、いつのまにかその香りがなければ石鹸でないように思うほど、オリーブ石鹸は我が家に馴染んだ。
 士官学校に入ってからはそんな贅沢とは程遠く、最近まで石鹸は見かけなかったので、久々の再会だった。木箱入りの大きな石鹸はそれなりに値が張ったが、当時の我が家で軽く三年は使えたことを考えると高くはないかもしれない。
 私は懐かしい香りのする香料入りの石鹸とその木箱入り大きなオリーブ石鹸をその店で一つずつ購入した。一人暮らしではいったいどのくらい持つのだろうと考えながら。
Etude Op.25-2 f-Moll
(2010.06.02)
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