5.サボン・ド・マルセイユ 師匠であるホークアイのもとに通っていたとき、週末になるとホークアイ家に泊り込みで師匠の講義を受けていた。宿泊するにあたって、ホークアイ家は広いのに2人しか住んでいないお陰でとくに困ることはなかったのだが、風呂場にはいつもちびた石鹸しかなかったのだけがいつも気になっていた。最初の幾度かはガマンしてその石鹸を使っていたが、いつになっても変わらぬそれに耐え切れず、リザに新しい石鹸を要求したことがある。そのときリザは新しいのを切らしていると言っていたが、あとで生活費も切り詰めているホークアイ家に買い置きの石鹸など置く余裕もないのだと気づいた。普段当たり前に使っている石鹸が、切り詰められる対象になっていると知って、少なからずショックを受けたのを覚えている。 そこで、次にホークアイ家を訪ねたときに手土産としてピーチの香りのする石鹸を持参した。これは私の養母の店に訪れる客が店の女の子にと持ってきた土産物で、少々強めの香料と素材の良さ、そして使った後の肌状態が良いのが評判の、マルセイユ石鹸だった。特に上流家庭や水商売の女性に人気で様々な種類の香りがあったが、その中で一番リザに似合いそうなかわいらしいものを選び、こんな高価なものは受け取れないと渋るリザに家にあったものだからと半ば無理やり受け取らせた。実際、自宅にはそういった貢物のような石鹸が山のようにあったから、欲しいと言われればいくらでも持ってくることはできた。自分で買った贈り物でないことは少し残念だったが、リザにもそういった女の子の楽しみをさせてやりたかった。 それからすぐその石鹸は風呂場に登場したが、しばらく経っても一向に減る気配がなかった。高価な石鹸はお客様のためのものと、リザは使うのを渋っているようだった。せっかくリザのために選んで持ってきた石鹸を使ってもらえないのでは意味がない。だが香料入りの石鹸は見るからに高価で、彼女に使ってもらうことは難しいのだろう。 そこで今度は家にあった別の石鹸を持っていった。それはオリーブ油で作られた大きな石鹸だった。匂いは泥のようで少々きつく、値段も香料入りよりは落ちるが、質の良さは香料入りのものより上だった。案の定、香料が入っていないことや大きさが良かったのか、多少渋ったもののその石鹸はホークアイ家の風呂場にすぐに採用された。師匠も、そしてリザ自身も使っているようだった。ホークアイ家にオリーブ石鹸の匂いはすっかり馴染んだ。 しかし、ある日それとは違う香りがリザからした。いつぞやのピーチの香りだった。風呂場でも台所で使っている彼女が気配はないのに不思議だったが、すぐにそれは解決した。リザ自身ではなく、服から立ち上っていたのである。リザはあのマルセイユ石鹸の屑を大切に包み、自身の洋服と共にチェストにしまっておいたのだった。リザのそんな女の子らしい様子に、初めて私は彼女にどきりとした。 あれから、どのくらい経っただろうか。私とリザを取り巻く環境もずいぶん変わり、あの頃のように石鹸も高価なものではなくなった。年を重ねれば香りも石鹸から香水へと移り、より様々な香りを楽しめる身分になったが、リザはあまり香水を好まなかった。だが、先ほど「懐かしい石鹸を見つけたんです」と少し機嫌の良いリザが髪に纏ってきたのは、あのときのピーチの香りだった。忘れもしない、初めて私が女性に贈り物をした、あの石鹸の香りだった。私は思わず目を細めた。あのときの香りは、私だけの思い出ではなかったのだと。 6.三度のかくれんぼ 「マスタング中佐見なかった?」 階段を下りてところで副官の下士官に尋ねる声が壁を通して伝わってきた。廊下の角の向こう側だ。廊下に出ようとしていた私は踵を返して手前の階段に戻ると、さらにもう一階分階段を下りた。 エスケープも楽ではない。もちろん仕事中にエスケープするということ自体間違っていることは承知の上だ。だが、こんな嫌がらせのような書類ばかり相手にしていたら、精神的に持たない。それにもうすぐ査定の時期、自分の時間をどうにかして見つけないと、とてもじゃないけれど自分が国家錬金術師の資格を剥奪されてしまう。 彼の副官は、悲しいかな優秀だ。私の逃げる先などお見通し、どこに逃げても見かってしまう。そりゃあそうだろう、子供の頃から私のことを見ているのだから。たとえ途中にブランクがあったとしても、私の本質などそうは変わりはしない。ひょっとしたら彼女に見つけて欲しくて逃げているのかもしれない、そんなことを思いついて私はにやりとした。 見つけてもらうためには、隠れなくては。 研究のための時間を取るなどという当初目的はすっかり忘れて、私は行きつけの資料室にこっそり忍び込むと、息を殺して部屋の扉を閉めた。あとどのくらいで見つかるだろうかと、ワクワクしながら。 |