9.蝶々と子犬

 子犬というものは、動くものには本当によく興味を示すものだ。司令部の中庭の木陰で黄色い蝶を見つけた愛犬・ブラックハヤテ号は、いつまでも飽きずにそれを追いかけていた。少し高く飛んでいってしまえば、羽を持たぬ犬には決して届かないのに。それでも彼は全力で追いかける。
 そんなハヤテ号を、私も飽きずに眺めている。はたから見ればさぞ滑稽なことだろう、かれこれ10分以上何もせず見つづけているのだから。けれども愛犬から与えられる時間は私にとっては癒しだ。子犬は嘘をつかない、ただ自分の欲求を前進でぶつけてくる。これだけ欲求に忠実にいられる愛犬に、羨望すら覚える。私もこうやって欲求に忠実に行動したら、どんなに楽なことだろう。周りを気にすることなく、ただ守るべき人だけをまっすぐ見つめて、彼のためだけに全力を尽くすことができたらいいのに。
 本音と建前を巧みに使い分けるどろどろとした人間社会の中で、愛犬と接する時間は唯一無垢になれる時間だった。自由な時間に限りはある、だが、できる限りぎりぎりまでこの癒しの時間を楽しんでいたい。私は上方の司令室の窓から同じように愛犬を見つめる視線をなんとなく感じながら、愛犬をいつまでも眺め続けるのだ。

Etude Op.25-9 Ges-Dur
(2010.06.07)
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10.オクターブのすれ違い

 彼女との再会は、自分の考え得る中で最悪のパターンだった。というより、想像すら出来なかった展開だった。まさか彼女が自分を追ってこんなところまで来るとは! 彼女だって、こんな戦争の最前線で再会するなどとは思ってもみなかっただろう。
 彼女は純粋な女の子だった。多少人見知りで負けず嫌いなところがあってどうにも誤解されやすいが、彼女の本質は非常にまっすぐでけなげだと思う。私が士官学校に入ることになったときも、反対した師匠に隠れて彼女はこっそり応援の声を掛けてくれたし、師匠の死の際にその背の秘伝を見せることになったときも、非常に難解な暗号を私なら読み解けると信じて疑わなかった。彼女は純粋に父親の言を信じ、そして私を信じた。
 だから、師匠が亡くなったとき、本当は彼女を一人にしておきたくなかった。こんな彼女が一人ぼっちで暮らしていて誰かに傷つけられでもしたら、そう思うと何度彼女を連れて帰ろうと思ったか知れない。いや、本当は彼女を残して軍に籍を置いてからも、何度彼女を迎えにいこうと思ったことか。けれども、いつ命を落とすかもしれない軍にいて彼女を生涯幸せにするとは約束できないということが、いつも引っかかった。いくら士官学校を出ていたとしても新人尉官では前線に借り出されるのが関の山だ。もし私が彼女と一緒になって、それで若くして先に逝くことになったとしたら? 彼女をまた一人残して、それで彼女を幸せにしたといえるのか? そう考えると、とても勇気を出すことなど出来なかった。
 彼女はまだ若い。たとえその背を人に見せることができなくても、きっといつかその背ごと彼女を愛し幸せにしてくれる男が彼女の前に現れるに違いない。考えるだけで悔しいが、それが彼女のためだと思った。もし私がそれ相応の身分になっても彼女がまだ一人だったら、そのときは改めて迎えにいけばいい。そうやって先延ばしにしているうちに、いつのまにか彼女との連絡は途絶えてしまった。連絡が取れないのを不思議に思って家を訪ねたこともあったが、すでに彼女はいなかった。
 だから、彼女が今、目の前にいるという事実に愕然とした。いくら私を追ってくるとはいえ、まさか軍人になるという選択をするとは! 純粋な彼女は、こういう形で私を追ってきたのだった。
 彼女の幸せを願うあまり連絡をとらず、その結果彼女に幸せとは一番程遠い道を選択させてしまった自身に、私は絶望した。 
Etude Op.25-10 h-Moll “Octaves”
(2010.06.07)
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