11.Libera me
 偶然なのか必然なのか、父の死に際に傍にいたのは父のお弟子さんだった。ずっと会っていなかったというのにその時に限って居合わせたのだから、必然だったのかもしれない。もしくは、父が彼に会えるまで待っていたのか。どちらにせよ、父は口では文句を言いながら彼を相当買っていたことは事実だ。他人にあまり良い評価を下さない父が、珍しいことだった。実力の程は錬金術の素人の私にはわからないが、人柄は確かに信頼できると私も思っていた。
 だから私は疑うことを知らず、ただ父を信じた。私の背に刻まれた秘伝を託すのは、どう考えても彼しかいない。けれども、彼をこれ以上私たち親子の元に引き止めておくわけにはいかなかった。彼には青年将校としての未来がある。「死なないで」なんてつい心配になって口から出てしまったが、士官学校を出た人の未来がどれだけ明るいかなど、世間知らずの私だって知っている。私のような誰からも気味悪がられるような背を持つ小娘など、甘えて傍にいてはならないのだ。
 父の葬儀のあと、その意味も知らず彼が快く承諾してくれたのをいいことに、私はさっそく背中の秘伝を託す用意をした。服を脱がなければならないのだから、あまり変な場所でないほうがいい。ベッドの近くなら毛布で前を隠すこともできるだろう。他に誰もいない広い屋敷に男女が二人、もしかすると、いやこんな気味の悪い背中を見てそんなことはまずないと思うが、もしかしたら何か間違いが起こるかもしれない。たとえそんな間違いがおこらなくても、男性に肌を晒すのだ、緊張しないわけがない。それなら安心できる場所のほうがいい、そう考えて彼を自室に呼んだ。
 一つしかない椅子をベッドの前に引っ張ってきて、「どうぞ」と差し出す。恐怖に声が震えたのは彼にはわかってしまっただろうか。彼が不可解な顔をしつつも腰かけたのを見届けると、私は靴を脱いでベッドに上がり、喪服のボレロを脱いでワンピースのファスナーに手をかけた。何を勘違いしたか彼は慌てた様子で私の手をつかんで止めたが、「秘伝はここにあるんです」と告げると黙り込んでしまった。私は恐怖を押し切ってファスナーを降ろし、私はワンピースを脱いだ。
 背が露になる。彼が息を呑むのが聞こえる。先ほど着用していたボレロを胸の前に持つと、じっと瞼を閉じた。とても目を開けてはいられなかった。彼の視線を感じる。きっと秘伝に見入っているのだろう。
 静まり返った薄暗い部屋の中でお互い口を開くこともなく、ただただ時間が過ぎていった。どのくらい経ったのか、カタンと音がして、彼が立ったのがわかった。彼がどういう行動に出るかわからなかったが、恐くて振り返ることはできなかった。やがて背に彼の手が触れて、びくりと体が反応する。恐怖で瞑った目にさらに力をこめると、何か暖かいものに覆われた。彼が私を背中から抱きしめたのだった。
「・・・・・・すまない」
 彼は言葉を探しているようだった。私は動けず、ただじっと次の言葉を待つことしか出来なかった。
「君に恐い思いをさせてしまった。でも、師匠の秘伝は確かに受け取った」
 彼の言葉に私は救われた思いがした。私が背中に負っていたものは、決して無駄ではなかったのだ。
 安心からか、突然涙が溢れた。葬儀の際にも一度も流れなかった涙だった。私はボレロを持つ手に力をこめると、それからしばらく溢れ出す涙をしばらく止めることができなかった。
Etude Op.25-11 a-Moll "木枯らし"
(2010.06.08)
▲戻る





12.君に誓う

 焔の錬金術師は、名目上は視力を失っても軍人として錬金術師として活躍していることになっているが、事実上は盲目であるが故に行き場を失った。たとえ兵法に長けていても見えぬ隊に指図することはできず、錬金術師として精進しようとも、本も読めぬ者に学問を追究することはできない。
 彼女はそんな私の目になるべく、常に私の側に添った。これまではその背を守るべくいつも後ろについていたが、今度は目となるために常に前についた。彼女に引かれて歩む道は、不思議な感覚だった。
 そして今日、初めて彼女を隣に立たせる。背を守るわけでもなく、目になるわけでもなく、私の連れ合いとなるために。お互いの手を取り歩むバージンロード、一人の紳士としてエスコートもできないのは非常に情けないが、そんな私の意を汲んでか、彼女の気配は決して前に出ることなく常に隣にあった。彼女の気配が、私の進む道の唯一の頼りだった。
 改めて考えてみれば、彼女が私の頼りでなかったことなど一度もない。出会ってからというもの、たとえ側になくとも私の念頭には常に彼女がおり、彼女の存在が私を前に導いてきた。彼女なくして今の私は有り得ない。
 叶うことなら、その晴れ姿を見たかった。視力を失ってからある程度の覚悟は受け入れてきたが、これだけは非常に悔いが残った。初めて出会ったときの短い髪にひどく痩せて目ばかりぎょろぎょろと目立ったあの頃から、一緒に過ごし始めてだんだんと少女らしくなっていく彼女に、目を奪われた。師匠が亡くなった日、秘伝を受け継ぐために見た彼女の背は、目を背けたくなるくらい白かった。そして別れ、最悪の環境での再会。しばらく会わないうちに、彼女は身も心も大人なり、自分の意志で私と共に棘の道を歩むことを決意した。どんどん綺麗になっていく彼女に想いを募らせながら、それでも彼女を一人の女性として受け入れることのできない自分の立場に何度恨めしく思ったことか。早く秘伝の呪縛から開放してやりたい気持ちと、そうすることで彼女が自分の下を離れていってしまう恐怖との戦いだった。エゴだとわかっていても、自分を正当化して彼女を手放すことはできなかった。
 自ら傷つき、彼女も傷つけ、大総統になって民の幸せを導くという未来は見失った。だが、代わりに見出した『彼女と共に歩く未来』は、滑稽なことに結局私が最初に夢見た『彼女を幸せにする』という目的を達したのだった。
 信じてもいない神の前で彼女を幸せにするなどと誓うのは狂言にも近い。だが彼女の目を見ることのできない今、どこにいるとも知れない神に誓うしか私にはできない。せめて彼女の姿を一目でも見ることができるのならば、彼女自身に誓えるのに。
 牧師が聖書を読みあげる。少しの動きにもかさりと鳴る衣擦れの音が、彼女が普段は好まないふわりとしたドレスを着ていることを私に知らせる。
 そして、牧師に指示され彼女と向かい合ったとき、異変が起きた。真っ黒な世界にぼんやりと白い陰影が浮かび上がったのだ。ぼんやりと、だが、確実にそれは人の形をしていた。私は動くことも出来ずに前を凝視した。最初は自分の幻想かと思ったが、それは紛れもなく今の彼女の姿だった。
 ざわめく人の声がする。当然だろう、誓いのキスを前に新郎が微動だにしないのだから。だが、そんなことは関係ない。
「准将?」
「見える」
 彼女の気遣う声につられて、私は言葉を発する。グレーがかった白がぼんやりと動く。白いベールに、白いボリュームのあるドレス。たとえ彼女の顔が見えなくても、私が肩をつかめば、白はそれに応える。間違いなく彼女だ。
「え?」
「見える、君が」
 神など信じない。私は錬金術師、科学者なのだから。けれども、今日ばかりは神に感謝したい。一瞬でも、ぼんやりとでも彼女の姿を見せてくれた神に。
「リザ」
 そのまま彼女を引き寄せ、抱きしめた。目の前に白が広がる。忘れないように、失わないように、目を閉じた。
「君に誓う。君を必ず幸せにする、と」
Etude Op.25-12 c-Moll "大洋"
(2010.06.09)
▲戻る