Amnesia SAMPLE

※2009年5月blog掲載分です。多少変更部分があります。

 目が覚めると、そこは病院のベッドの上だった。
 いろいろと思いめぐらせてみるが、なぜ自分がここにいるのか男には全く見当がつかない。怪我をしたのか、それとも病で倒れたのか。そもそも、ここにくる前に何をしていたのかということすら思い出せなかった。
 とりあえず男は体を起こそうとしたが、ベッドはギシッと音を立てたものの、酷い頭痛に襲われて起きることができない。仕方ないので男が起き上がることを諦めて再びベッドに身を沈めようとしたとき、ノックの音とともに病室のドアが開いた。
 姿を見せたのは、青い制服を着たブロンドの女性だった。制服をよく見ると軍服のようであるが、妙齢のどちらかというと華奢な体つきの女性が軍人とはとても信じがたい。彼女は驚いた表情を見せたあと、涙を目に溢れさせながら呼んだ。
「大佐!」
「タイ…サ?」
 男は彼女の言っている意味がわからなかった。
――私の名前は、タイサ?
 いや、彼女はやはり軍人で、今発したのはおそらく階級名だろう。ということは自分も軍人で、それも大佐職なのだろうか?
 男が発した声はかすかなものだったが、彼女の耳にはしっかりと届いていたようだった。彼女はハッとした顔をした。表情が曇り、そして一気に引き締まる。目に溜まっていた涙は、もうない。
「失礼しました。今、医官を呼んで参ります」
 敬礼をした彼女は、男が呼び止める間もなくドアの向こうに消えていった。

 その後、彼女の連れてきた医官の診察を受けた男は、事故で頭部を強打し、それによる記憶障害があることが発覚した。いわゆる記憶喪失である。確かに『ここにくる前に何をしていたか』どころか、自分の立場や名前すらわからない。何一つ思い出せないのである。
 男は事故当時は身体も打ったようでそこかしこに傷を負っていたが、そちらは軽症で、意識を取り戻した時にはすでに回復傾向にあった。一番重症だったのはやはり頭部で、一週間以上意識が戻らなかったとのことだった。
 男の名前はロイ・マスタング。29歳という若さで国軍大佐まで上り詰めた男であり、そして同時に国家資格を持つ錬金術師でもあった。それだけの肩書きをもつロイには、見舞いに訪れる者も多かった。中でも頻繁に顔を出すのは、護衛を兼ねて訪れる直属の部下たちと、それから婚約者であるという女性。
 身内は養母が一人いるだけで、その養母も多忙でめったに来られないということから、婚約者がロイの身の回りの世話をせっせと焼いてくれた。
 ブラウンの巻き髪に清楚な服を着てふんわり微笑む姿は大変かわいらしく、また些細なことにもすぐ気がつき、何をやらせても手際がよい。婚約者であるメアリー・オーチャードはそんな家庭的な女性だった。
 だが、彼女に世話を焼いてもらうことに、ロイはどこか違和感を感じていた。メアリーが顔を見せるたびに、この時間が早く過ぎればいいと思ってしまう自分がいる。
 そしてそれと同時に気になるのは、ほぼ毎日ドアの外で護衛のために立っている女性士官の存在。彼女はロイの副官でそれなりに長い付き合いがあるようだが、顔を見せる時間が非常に短い。着任、退出時の挨拶と見舞い客の案内、それに誰もいないときに時折様子を覗く程度である。

 なによりその表情はその綺麗な容姿によらずいかにもお堅い軍人といった風で、部下たちに労いの言葉をかけるときこそ笑顔が見られるものの、それ以外はいつも厳しい顔をしていた。表情を崩したのは、ロイが目を覚ましたあのとき一度だけ。
しかし、そのときの彼女の涙を、ロイは決して忘れることができなかった。




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