47. このゆびから伝わるのが、どうか温かいものでありますように

 商店街の外れの路地を少し入ったところにある小さな公園は、昼間も決してにぎやかと言うわけではないが、日が沈むと木々のそよぐ音がうるさく感じるほど静かだった。公園の外を通り過ぎる人はいるけれど、中まで入る者はほとんどない。それを知ってか知らずか、少しアルコールが入ってなおペースを落とさず公園に入る彼の後ろを追って、私も小走りにその公園に足を入れた。

 彼はベンチに腰をおろすと、ここに座れと言わんばかりに隣を指差す。今はプライベートな時間、遠慮することはないはずだ。私は促されるままに彼の横に腰をおろした。
 すると彼は、ふぅと一つ溜息を吐いた。
「ようやくワンステップ上ったわけだな」
 来月付けで彼に大佐昇格の辞令が下りるという情報を、いち早く仕入れてきたのだ。彼だけではない。私も一緒に一階級昇進になる。その前祝いをと、二人で食事に行ったのだった。
「そうですね。本当におめでとうございます」
「もう君の『おめでとうございます』は聞き飽きたよ。それにステップアップは君も一緒だろう?」
 私の答えを聞いて、彼はぷっと噴出す。その瞬間、彼の纏う空気が一気に柔らかいものになったのを感じた。これで完全にプライベートモードになったのだ。彼はただの錬金術師、ロイ・マスタング。
「たったのワンステップが、これだけ時間がかかると思わなかった」
「これだけとおっしゃいますけど、中佐、一般的に見たらとんでもないスピードですよ」
 彼の軽快な声に反し、答える私の声は相変わらず仕事と同じテンション。この反応に彼はしかめ面をした。
「…なんだ、冷たい言い方だな」
 だがこればかりは仕方のないことなのだ。不器用な私は、彼のようにコロコロとモードをかえられない。
「申し訳ありません。元来こういう性分ですので」
「やめてくれ。司令部にいる気分になってくる」
 頭を抱えた彼はそうだと一言呟くと、突然私のひざに頭を乗せてきたのだ。
「・・・ちょっ、何を!」
「君はもう何もしゃべるな」
「でもっ」
 突然の事態に慌てる私を他所に、彼は目を閉じた。その無防備な表情を見たのはいつ以来だろうか。そこで私はようやく理解した。今、彼は軍人ではないただの一人の人間に戻りたがっているのだ。
 私は抵抗するのを止めて、彼の望むままにおとなしく目を瞑った。



 そういえば、私が「マスタングさん」と呼ばなくなったのはいつごろのことだろうか。お互いに軍人として再会した殲滅戦のころは、私の中での彼はまだ「少佐」という肩書きの軍人でも「国家錬金術師」でもなく、あくまで父の弟子だった。もちろん一学生の私が彼を名前で呼べるわけもなく公の場では階級呼びが絶対だったが、当時の私は生き残ることで精一杯だったし、なにより父の錬金術の使用目的に対する疑念やそれでも彼を守らなければならないという使命感など、彼への複雑に絡み合った思いが私の中のほとんどだったから、自然「マスタングさん」と呼ぶことのほうが多かった。彼もまた周りにヒューズ大尉以外の誰もいないときは、私を名前で呼んだ。ほかに呼び方がなかった。もしかしたら名前を呼ぶことで、お互い生きていることを確かめあっていたのかもしれない。
 殲滅戦後、私自身が本格的に軍に籍を置くことになったために階級名で呼ぶことが通常になったが、職務中に時折見せる彼の彼らしい仕草に、ふと「マスタングさん」と呼びそうになり焦ったことが幾度かある。その頃からかもしれない、意識的に名前を呼ばなくなったのは。私は軍人、この人は上官、そう自分に言い聞かせて毎日を過ごすうちに、気付いた時には私の中での彼の名は「中佐」になっており、もう名前で呼ぶことはできなくなっていた。

 その点、彼は実に器用である。プライベートのときは私のことを階級名で呼ぶことはめったにない。私が頑なに階級名を使うからか今となっては名前で呼ばれることはほとんどないが、彼の私を呼ぶ声からは、「部下」としての私とは別に「庇護するべき者」としての私がいるのだろうということは読み取ることができる。 
 考えてみれば彼はイシュバールの頃からそうだった。彼だって生きることに必死だったはずだが、彼は戦場のほんの一時の気の抜ける瞬間まで、私を庇護することに意識を向けていた。おそらく焔を授けてくれた父と私に対する償いの気持ちが彼にそういう行動を取らせていたのだろうが、彼は今でも師匠の娘としての私を引きずっているのだと思う。だから軍人ではない、ロイ・マスタングという一人の人間に戻りたい時は、師匠の娘リザ・ホークアイを求め、こうして誰もいないところで甘えようとするのだ。

 彼を名前で呼ぶことは、任務を除いてはおそらくもうできない。焔を生み出した錬金術師の娘は、彼が焼いてしまったのだ。私はただの軍人、ただの彼の部下。いつか彼がその野望を成し遂げることができたら、そのときはまた前のように「マスタングさん」と呼ぶのもいいかもしれない。しかしそれまでは冷たいと言われようがなんだろうが、部下の面を被っていかなくてはならないのだ。



 膝の上にある彼の頭に触れてみる。初夏の夜に吹く涼しい風にさらされて、髪がひやりとする。
 ああ、今の私には表立って貴方に暖を与えてあげることができません。どれだけ望まれようと、貴方が野望を成し遂げるために、私が誓った忠誠を守るために、それは何があってもできないことなのです。だから、せめてこのゆびから伝わるものだけは、どうか温かいものでありますように。
 彼の軟らかい髪を梳きながら、切に願った。


(2008.06.03)

ロイアイ祭に寄稿していた作品です。お題はカプリッチオ様より。リンク切れのため、リンクしておりません。

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