渡しそびれた贈り物 番外編

 たまたま平日に休みの取れた増田が三度目のデートに選んだのは、水族館だった。公営のその水族館は規模が大きくないせいか、入館料が安い割に人が多くない。そのうえ平日の午前中という時間帯もあって、見かけるのは数組の小さな子連れと熟年カップルくらいで、水族館の中は閑散としていた。
 増田は券売機でチケットを2枚買うと、後ろで待っている、やはりその日偶然午前中の大学の講義がなかった理沙にその1枚を渡した。券売機付近も人が疎らだった。そして二人は券売機付近で入館料を払う、払わないでしばらく押し問答をしていたが、やがてどちらかが譲歩したのか静かに中に入っていった。
 
 入場口付近は小さな水槽が並ぶ、ごく一般的な展示スペースだった。やや暗めの照明に照らされたたくさんの水槽の中で、小さな海の生き物たちがそこかしこで動いていた。しばらく二人は歩みを進めながら道順どおりに水槽の中の生き物たちを眺めていたが、やがて増田が「あっちへ行こう」と小さな看板を指差した。それは薄暗い階段で、一応順路には含まれているが、気をつけていなければ見落としてしまいそうな場所にあった。

 階段は下階の水中トンネルに続いていた。上階よりも一段と暗いその階段を降り、一歩踏み入れてみれば水や魚たちから反射する光の波が独特の雰囲気を醸し出す。一面の蒼い世界の中で、大きな魚も小さな魚もまるで流れていくように気ままに泳いでいる。決して留まることなく、流れ続ける光の波。魚たちの体の表面に反射するたびにきらきらと輝く目映い水の光に、理沙は目がくらむような思いがした。
 すでに前を歩きだしている増田についていこうと理沙は二歩目を踏み出した。自分の周りを囲む光の流れに気をとられていた理沙は、ふと水に足を取られるような感覚に捕われた。
 ぐにゃりと空間が歪むような不思議な感覚。慌ててそばにあった手すりにしがみつくが、その間もゲル状化した砂地に足がずぶずぶと沈んでいくような、おかしな感覚が襲ってくる。足がすくんでしまって、動かない。このままこの光の波にあふれた空間の中に溺れてしまうのではないか、そんな不安が理沙の脳裏を支配した。声が出ない。助けを求めようと理沙は必死で増田に目で訴えたが、数歩先を進む増田は理沙の様子にまるで気づいている様子はない。
「待って!」
 理沙は目を瞑り、無我夢中で叫んだ。
 静かな空間に響く、場に不釣合いな声。上を見あげて水中トンネルを眺めていた増田は、一瞬それがどこから発せられたものなのか理解できなかったが、振り返った先に目に入った理沙の異常を認めると慌てて理沙に駆け寄った。真っ青な顔をして手すりにしがみついていた理沙は、増田が手の届く位置までくると彼の洋服に縋った。ぎゅっと握りしめられたその手は、小刻みに震えている。
「どうした?」
 明らかにおかしい理沙の様子に増田は彼女の上腕をつかむと、落ち着かせるように声を掛けた。増田の問いかけに、理沙は出すのがやっとといった消え入りそうな弱弱しい声で「なんか、変な感じがして」と答える。その声からもまた理沙が怯えているのを感じ取った増田は、洋服を握り締めた手を優しく解くと、自らの腕で理沙の身体をふわりと抱きこんだ。
 そこでようやく、理沙がふぅと息を吐いた。緊張が少し解けたのが増田に伝わる。増田はほっと胸をなでおろした。
 理沙は時折その場の雰囲気を敏感に感じ取ってしまうところがあった。普段はどちらかというと冷静さが目立つ彼女だけにそういった部分はあまり周りに知られていないが、今までも弓道の試合前などにその冷静さを乱すことがあったのを増田は知っている。
「気づかなくて、すまなかった」
 増田はすこしだけ腕に力をこめた。理沙の気持ちが少しでも和らげばいいというつもりだったが、だがこういう状況に慣れない理沙は、この場に誰か来てしまうのではないかと気が気でならず、別の意味で身体をこわばらせた。
「怖いと思ったら、遠慮せずにいつでも言っていいんだからな」
 増田の声が理沙の耳に優しく響く。
「傍にいるから」
 理沙は耳に届く声の心地良さに力を抜いて、その身を増田に預けた。
「ありがとうございます」
 少し落ち着いた理沙はようやく現れた微笑を浮かべて、増田の顔を見上げる。すると増田の右手が理沙の頬を包み込んだ。理沙は驚いて目を見開いたが、近づく増田の顔にその真意に気づくと瞼を下ろした。
 水と魚の流れだけが感じられる静かな空間で、二人はやはり静かに唇を重ねた。

 そうしているうちに、先ほど降りてきた階段の方から、足音と幾人かの話し声が聞こえてきた。
 二人はまるで示し合わせたようにパッと離れると、お互い顔を見合わせる。恥ずかしげに俯く理沙の腰に増田は腕を回すと、理沙に前に進むように促した。
「ちょ、ちょっと!」
 理沙は慌ててその手を解こうとしたが、増田はますます理沙を引き寄せる。そして、理沙の耳元に口を寄せると、囁いた。
「恋人同士なんだから、別に変じゃないだろう?」
 真っ赤になって理沙が抵抗する力を失ったことをいいことに、増田は水中トンネルの出口である昇り階段へと再び歩みを進めたのだった。

(2010.12.26)

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まねら様からの40000hitリクエストで、『水族館デートのロイアイ、穏やかな甘め』。パラレルでもOKということだったので、学パロの続きにさせていただきました。
途中穏やかではありませんが(汗)水族館内が穏やかってことで許してやってください〜。リクエストをいただいた当初に書いたのですが、納得行かないままうまく修正できずに1年以上も経ってしまいまして、本当に申し訳ありませんでした。
まねら様のみ、お持ち帰り可です。

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