渡しそびれた贈り物 1

 しまった、と思った。
 言い方が悪かったか、それとも場所が悪かったか。何れにせよ、周りに声が響くことはもう少し考えるべきだった。
 しかしどう足掻いたところで、現状では彼女を追う事はできない。増田は彼女が走り去るのに気づいていながらも、それをただ目で追う事しかできなかった――

 増田先生、と呼ぶ声にやれやれまたかと増田が職員室から出ると、真剣な表情をした一人の女子生徒が綺麗にラッピングされた包みを手に抱えて待っていた。最近女子校から共学に転身したばかりの増田の勤める高校は、在籍する男子生徒は一握り、そのためバレンタインには教師でも男性で独身というだけで相当な数のチョコレートが集まる。本来学校内には持ち込み禁止の菓子類ではあるがこの日ばかりは教師陣も見て見ぬふり、独身でまだ20代、且つユニークな授業と女の子に優しい質が人気の増田などは、毎年抱えきれないほどのチョコレートを受けとっていた。
 そのチョコレートの大半は一種流行のような形で贈られたものであったが、中にはそのチョコレートと共に真剣な想いを告白されることもないわけではなかった。想いを抱えた女子生徒たちは、放課後人少なになった頃を見計らってやってくる。そのため、いつもは女子生徒たちに笑顔を振り撒く増田も、このときばかりは苦い顔を強いられるのだった。

 その女子生徒は3年生だった。先生が好きです、今すぐでなくともいい、卒業後でかまわないから付き合ってくださいと言われれば、彼女の想いは真剣なものと知れる。しかし、増田はこういった想いを受け入れるわけにはいかないと思っていた。
「好きだと想ってくれるその気持ちは本当に嬉しい。だが、君達がこの学校の学生である以上、私は君達を恋愛の対象として見ることはできない。すまないけれど、卒業しても君とつきあうことはできない」
 それは教師たるもの当然のことだと増田は考える。しかしいつの頃からかその言葉を発する度に、どこか自分に言い聞かせているような錯覚に陥っていた。彼女達はかわいい生徒だ。一人にだけ特別な想いを注ぐことは許されない。もちろん教師だって人間だし、思い入れのある教え子がいても決しておかしくはないとは思う。ただ、それは飽くまで『生徒』としての思い入れだ。だが、その思い入れの一つが自分の中でもてあますほどの感情になりつつあることも、認めたくはないが事実であった。

 その瞬間、突然響いた階段を駆け降りる足音と見慣れた少女の後姿に、増田はしまった、と思った。いくら放課後で人が少ないとはいえ、ここは職員室脇の廊下、すぐ近くには階段もある。そんなに大きな声でなくとも、静かな廊下では声は響くもの。今の言葉を、一番聞かれたくない――と断言してしまってよいだろうか――相手に聞かれてしまったのだ。
 すぐに追いかけたい衝動に駆られたが、さすがに目の前で俯く女子生徒を放置するわけにもいかない。階段を駆け降りる少女の姿を目で追いながら増田が唯一できたのは、目の前の女子生徒に気づかれないように溜息を吐くことだけだった。



■  ■  ■



 理沙にとって、それは初めての恋だった。今までも異性を好きだと思う気持ちを持ったことがなかったわけではないが、いざ恋というものを経験してみれば、それらはただの憧れでしかなかったことを知った。
 正直、最初の印象はあまり良くなかった。入部希望時に弓道部の顧問だと紹介されたその国語教師は、確かに授業は面白いし清潔感もあるいわゆる「感じの良い人」だとは思ったが、如何せん女子生徒たちにへらへらしているのがいただけなかった。さらに、これは理沙が弓道部の部長になってみて初めてわかったことだが、いささか怠け者であった。いや、元来の怠け者ではないのかもしれない、部員たちが部活動をより快適に行えるよう彼は四方八方に手を尽くしてくれているのだから。ただ書類書きの仕事などは、得意のへらへらとした笑顔を振り撒いては本来顧問のやるべきものでも面倒くさいと理沙に押し付けた。真面目な理沙はそれに対して眉間にしわを寄せながら文句を言ったが、不思議と引き受けることに嫌悪感は抱かなかった。むしろ、それがこの人の人を惹きつけるところなのかもしれないとも思っていた。
 そんな一年間を過ごすうちに、理沙は彼に魅了されていた。3年進級時に部長の座を後輩に引き継いでからも、ちょこちょこと彼のところに顔を出しては、部の仕事を手伝っていた。

 だから、自然にしていればよかったのだ。「先生、いつもありがとう」と、ただそれだけ伝えてチョコレートを置いてくればよかったのに。廊下に響いた彼の言葉――その聴き慣れた声を理沙が間違えるはずはなかった――に、理沙の足はその先へ進むことを拒否した。
「君達がこの学校の学生である以上、私は君達を恋愛の対象として見ることはできない」
 それは、全否定だった。この学校の学生である以上、自分を生徒以上の個人として見てもらうことはできない。いや、卒業しても教え子以上としてみてもらえる保証はどこにもないのだ。
 理沙は踵を返すと、夢中で階段を駆け降りた。知らず知らずのうちに、涙が溢れていた。

 部活動中の部室は、誰もいなかった。秋に引退したあとも時折部活に顔を出していた理沙は、部室の鍵を躊躇することなく開けて中に入ると、持っていたチョコレートを窓際の机に置いて椅子に掛けた。この日のために綺麗にラッピングされたそれを見つめると、頭の中でいろいろな思いが交差する。
 本人につき返されたわけではない、今からでも渡すことは可能だ。しかし、見返りが欲しかったわけではないとはいえ、自分の想いが単なる『教え子達のうちの一人』という扱いになるのはどうにも嫌だった。それならばいっそ、伝えない方がいい。理沙は考えた末、チョコレートのラッピングを破った。

 ふと、部屋がノックされた。目を赤くしながらいかにもそれらしいラッピングを破る姿を見られるのは恥ずかしかったが、振り向いたときにはすでに入り口の引き戸は開けられており、その姿を存分に見られてしまっていた。理沙はその引き戸を開けた相手を見て、息を飲んだ。それはこの部屋にはあまり顔を出すことがない、顧問だったからである。
「増田先生…」
「うまそうなチョコレートだな」
 理沙が声も出せずにただ見上げていると、彼は近寄ってきてチョコレートを見た。
「手作りか…貰ったのか?」
 女子の多いこの学校では、女子同士でもチョコレートを渡すことと度々ある。それが憧れの先輩への本命チョコだったりすることもあるから、女子同士とはいえ侮れない。おそらく、その類いだと思ったのだろう。
「いえ、渡しそびれたんです」
 理沙は誰にとは言わずに、それでも本当のことを告げた。適当に誤魔化しても良かったのだが、今の理沙にはそうするだけの余裕がなかった。
「へえ、鷹目の手作りを受け取らなかったヤツがいるのか、もったいない」
 さも意外そうに言う増田に、理沙は少し笑った。まさかその相手というのが自分だとは露にも思わないだろう。
「受け取らなかったわけじゃないんです。私が渡せなかっただけで」
「それで自分で処分してしまおうというわけか」
いつのまにかどこからともなく椅子をもう一脚持ってきた男は、理沙の隣に腰をおろした。
「それなら一つくらい貰っても問題ないな」
 言うが早いか手作りのトリュフが口に運ばれる。理沙はあっけに取られて、男の顔をまじまじと見つめた。そして「うん、うまい」と言いながら次に手を伸ばそうとするその姿に我に返ると、「増田先生!」と咎めた。
「どうせ自分で食べるつもりだったんだろう、それだったら誰か他のヤツが食べた方がチョコレートも幸せなんじゃないのか」
 あなたが食べるはずだったんですよとは言えるはずもなく、理沙は苦笑して「そうですね」と答えると、トリュフを一つ口にした。ココアパウダーのかかったそれは、苦くて、ほんのり甘かった。
 八つあったうちの半分を自分の腹に収めた増田は、「うまかった。ごちそうさま」というと席を立ち、部屋の入り口に向かった。
「そういえば先生、何か用事があったんじゃないんですか?」
 ただチョコレートを食して、それだけで去ろうとする増田を、理沙は不思議に思って問い掛けた。しかし増田はいつものへらへらとした顔で「別にないよ」と答えた。
「ただ、部室をのぞいたらチョコを目の前に神妙な顔をした鷹目がいたからな」
 理沙ははっとして増田を見た。増田はそれには応えず引き戸を開けると、戸を閉めるために振り返り、そして言った。
「今度は渡す前に逃げるんじゃないぞ。探すの苦労したんだからな」
 閉められた戸と残された言葉。その言葉を発した彼は、普段の言動からは考えられないほど真剣な表情だった。

 理沙は頬が熱くなったのを自覚しながらも、閉められた扉からしばらく目を離すことができなかった。


--
初の学園パラレル。
バレンタインネタなのに、実は昨年秋に構想が出来上がっていたという…何て時期外れな私の頭!(笑)
(2009.02.14)

next→


close